2012年10月20日土曜日

柏崎刈羽原発見学ツアーに行ってきた


10月6日から一泊で、たんぽぽ舎の皆さんらとともに柏崎刈羽原発の見学ツアーに行ってきました。

40人ほどの参加者で、バスで新宿から5時間ほど。車中は、たんぽぽ舎の柳田さんや現地で反対運動に参加してこられた菅井益郎さん(たんぽぽ舎アドバイザー/國學院大学教授)の事前学習・レクチャーで到着までほぼ埋め尽くされました。夜勤明けでバスで寝るぞー、という態勢だった筆者も柏崎刈羽原発の構造的危険やし烈な反対運動の歴史などを聞いて、眠気が吹き飛ばされました。

柏崎市・刈羽村に到着して最初に訪問したのは「原発マネー」で建設された「生涯学習センター:ラピカ」。原発立地地域のいかにもな豪勢な建物にはプールや広い茶室まで備えてある一方で、その図書室には「原子力関連」というコーナーはあっても原発関連の本が一冊も見当たらない。原発推進の本すら見当たらないという、事故が起きれば原発の被害を真っ先に受ける地域で考えられません。

「ラピカ」のような行政関連の目立つハコモノは豪勢な一方で、刈羽村から柏崎刈羽原発に向かう道沿いの家々は、「古き良き漁村」を彷彿とさせる風景であり、さほど「原発マネーで潤っている」ようには見えませんでした。実際、ハコモノ建設で潤うのはゼネコンと地元の一部の土木業者であって、ほとんどの住民は地場産業かせいぜい原発労働に従事することで日々の生活を送っているに過ぎないということでした。しかし、その原発で確保されている雇用の問題を抜きに原発の存廃を語るのは地元ではやはり難しいとの説明がありました。

柏崎刈羽原発の端から端を見渡せる場所から、山の向こうの数本の排気筒を望む。そこは原発まで3キロの地点。当たり前のように田畑には農の営みがあり、車が行き交い、そこには日々の生活がありました。いやがおうにも福島第一事故前の双葉町の風景も同じだったのだろうと思い起こされました。そして、最悪事故の場合は、この土地も双葉町のように無人の荒野になってしまうのだろうか、という想像。しかし、2007年の「中越沖地震」の大事故寸前の体験を経て、昨年の福島第一事故の惨状を目の当たりにしている柏崎・刈羽住民の胸中は原発から離れたとし住民である自分には、なかなか推し量れるものではありません。

 
次に、海に出て岬から海に面した原発を望む。「中越沖地震」の震源地から柏崎刈羽原発までの近さを実感。最近の研究では、佐渡島と本州のあいだの海底にも活動層が見つかったという。そして、山一つ向こうには2004年の中越地震の震源地。柏崎刈羽原発は、いかに地震の巣の上に建てられたか、一目瞭然でした。そして、海から見ると原子炉の排気筒の低さもよく分かります。1~5号機の排気筒は160m、6・7号機の排気筒はやや高台にあるとは言えたった85mの高さ。これは工事費をケチった結果低くなったのであって、この低さには地元の推進派からさえ「こんなに低くては被害が地元に直撃ではないか」(当然、排気筒は高ければ高いほど有害物質を遠くに飛ばせる)と東電にクレームが入ったとのこと。まさに設計段階から地元軽視思想に貫かれていることが伺えるというものです。




夜は、食事のあとに地元で反対運動に長年取り組んでこられた刈羽村村会議員の近藤容人さん(ラピカから合流して案内してくださいました)、柏崎市会議員の矢部忠夫さんや高橋新一さんらと交流会。東京を訪れるとその明るさとスカイツリーやイルミネーションなどの電気の無駄遣いに複雑な思いを持つ、という「新潟の声」とともに、昨今の官邸前をはじめとする脱原発運動の盛り上がりを非常に評価していて「20万人をさらに十倍にするために知恵を絞ってほしい」という"要望"も。あるいは「3.11以降、推進派の社長に"俺はいまさら原発反対などと立場上言えないが君には頑張ってほしい"などと話しかけられる」というエピソードも。現地の反対運動が、孤立せず一定の「コミュニティ」を形成しながら、地元の「推進派」とも人間関係を断絶することなく続けられてきたことを伺わせるおおらかな人柄が矢部さん、高橋さん、近藤さんからにじみ出ていました。

翌日は、柏崎刈羽原発のPR館を訪問。説明用のパンフがほしいと受付に言ったところ、「経費節約のためありません」との回答。まさか「PR館」にPRのためのパンフがないとは考えられず、「原発反対派に配るパンフなどない!」ということのようです。これが東電の3.11事故後の一つの対応ということです。

 
 
PR館は、玄関に入るなり「現在の津波対策」をアピールする防潮堤建設の様子の映像が流れていました。たしかに巨大な防潮堤が建設されているようですが、2007年に原発をダウンさせたのは津波ではなく地震だったわけで、このPR館全体の説明を見渡しても、地震対策についてはほとんど見受けられませんでした。ひとつ印象に残っているのは、ミニチュアの配管の模型を糸に垂らして揺らして「配管はこのように耐震性を保っています」という説明。配管には当然タテのものもあるし縦揺れの地震の場合はどーなるの??というギモンが誰もが即座に浮かびそうなものですが、東電はあまり気にしないようです。

また、置かれているパネルにはこっそり「福島第二原発はすでに復旧しています」という表記も。こんなことは東電はまだあまり世間には公表していませんが、柏崎刈羽の再稼働とともに福島第二の再稼働も具体的に狙っているという証左なのでしょう。

ごく簡単ですが、これをもってツアーの報告とさせていただきます。行ってみて、柏崎刈羽原発はいかに「砂上の楼閣」もしくは「砂の器」そのものであるか、実感として理解できました。あのような施設があり、そして動くかぎり、周辺地域は必ず福島かそれ以上の惨状に見舞われることになるでしょう。東京・首都圏に住み原発の電気を享受しながら福島の事故を止められなかった私たちは、この新潟の「いつか必ず大事故を起こす原発」とどう向き合うべきか、答えは一つしかないように思えます。

地元議員さんたちが異口同音に語っていたのは「東京からこっちに来て、ぜひデモをやってくれ。なかなか声を出せない地元の人間がどれだけ勇気づけられるかわからない」ということでした。来年にもぜひ実現させたいところです。そして、東電前アクション!の東電本店前でのアクションが、地元の反原発運動のネットワークのメーリングリストで常に紹介されているということを教えていただいたことも報告しておきたいと思います。

ツアーを企画していただいた方々に、感謝します。

(KM)

・    10月6日、7日 柏崎刈羽原発に行きました。/犯罪企業・東電、政府、規制庁の謀略を含む再稼働の策動を叩き潰そう!(さよなら原発みなと)
http://sayonaragenpatsu.cocolog-nifty.com/blog/2012/10/post-da4c.html

・ 柏崎刈羽原発現地視察・交流ツアー報告 (全学闘太郎BLOG)
http://blog.livedoor.jp/shibakodai_zengakuto/archives/51693206.html

・ テント日誌(10/6)柏崎刈羽現地交流バスツアーに参加して
http://www.labornetjp.org/news/2012/1349749582497staff01          

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